高知県高知市
2022.10.28 (Fri)
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「坂本龍馬も泳いだ」と伝えられる、日本の名水・鏡川。その源流域にある高知市土佐山エリアは丘陵地が多く、長年「農業には不向き」といわれていました。そんな場所で、いち早く有機栽培の大切さに気付き、1989年に立ち上がったのが「夢産地とさやま開発公社」です。
「夢産地とさやま開発公社」の立上げ人のひとりである大崎裕一さんは、それまでバラバラだった農家をつなぎ、結束して有機農法に取り組みます。周囲の反対や研究開発の苦労を経て、有機農法による農産物を次々に開発。その代表格である「土佐山産の有機生姜」にスポットを当てるとともに、推進力とアイデア力で困難を乗り越えてきた大崎さんの25年のストーリーをつづります。
有機農業とは、原則として、化学合成農薬・化学肥料・化学合成資材を使わず、3年以上を経過した堆肥などで土作りをした農地で行う農業のこと。
「オーガニック」という言葉が浸透したことで、今でこそ馴染みがある有機栽培ですが、土佐山で有機栽培を目指したのは今から30年以上も前のこと。農薬を使った栽培が当たり前だった時代に、あえて有機栽培を目指した背景を「夢産地とさやま開発公社」の大崎さんにうかがいました。
「その当時の土佐山は、若者の農業離れや、過疎化や農家の高齢化問題、さらには、一番の販売高を上げていたミョウガが根茎腐敗病を発生するといった問題が累積していた頃でした。先行きが不透明な中、この現状を打破するために誕生したのが『夢産地とさやま開発公社』だったんです。」
特に問題視されていたのが、農薬による深刻な健康被害。実際に健康被害を出した農家もあり、役所からも「一旦農薬を辞めたらどうか」という提案があったのだそう。しかしながら、「『農薬をまったく使わない』という前代未聞の提案を受け入れられる農家は少なかった」と大崎さんは話します。
「僕らの時代は農薬を使うことが当たり前。農薬を使わなければ作物は育たないし、収穫量も減ってしまう。長年農薬を使ってきた農家からは大反発され、結果的にはわずか1年で農薬の使用が復活しました。」
無農薬栽培にあたり、大崎さんたちが注目をしたのが、家畜の糞をベースにした「栄養価の高い堆肥」。長年研究を続けた結果、自然界の浄化システムを応用した「BMW技術」という製法を確立させ、有機農業を基本とする「有機の里土佐山」としての一歩を踏み出していきます。
村のサポートだけでなく、少しでも有機の良さを知ってもらうため、農家の方を集めて無農薬野菜の食べ比べなども行ってきた大崎さん。
「有機の堆肥で作った野菜は、味が全然違う」と思わず笑顔がこぼれますが、「野菜のうまみが増し、えぐみがなくなることを周知することはできても、農薬撤廃を一気に進めることはできなかった」と話します。その理由には、無農薬での生産の難しさだけでなくコストや販路の問題があったのだそう。
「有機野菜は生産にコストがかかっているため販売の値段がどうしても高くなってしまう。有機という付加価値が浸透していなかったため、一生懸命作ってもなかなか販売を拡大することができず、結果的に自分たちで食べる野菜は無農薬にして、一般に発売するものは変わらず農薬を使うという農家が多くありました。」
「でも、『できることを少しずつ』という思いで、珍しい野菜を有機農法で作ることをすすめてみたり、できあがった野菜を県外の人が買って喜んでくれるという実績を作ってみたり。目の前のできることをひとつずつ実践し、一定の評価をいただいてきたからこそ、今があります。町としても「無農薬をはじめよう」とする農家のために、役所が堆肥を作るセンターを作ったり、さまざまな投資をして、村として農薬ゼロへと踏みきりました。」
高知といえば生姜、というイメージも強い中で、土佐山として有機生姜の栽培に取り組み始めたのは2007年。今やメイン産業となった「土佐山の有機生姜」をはじめた背景を遡りました。
「『生姜は農薬を使わないと絶対に作れない』という暗黙の了解があったので、最初はみんな作りはじめることに乗り気じゃなかった。でも、無農薬で作るのが難しいといわれている生姜を作ることができたらインパクトも大きいし、その頃ちょうど休耕田の活用法を考えていたときでもあったので、生姜の栽培地として活用しようと動いたのがきっかけでした。」
減反政策によって使わなくなっていた棚田は土がやせ細っておらず、さらに土佐山自慢の堆肥を入れたことで、有機栽培に適した栄養の詰まった土壌が完成。無農薬の生姜は絶対に無理だといわれていた中で、皮ごとまでも食べられる、土佐山自慢の風味の強い有機生姜が完成します。
そんな中、「ジンジャーエール」が人気があるという情報を耳にします。他の有機野菜と同じく、有機生姜の販路を探していたところだったため、大崎さんたちもジンジャーエール作りを試みます。
「試作品を作ったのは2009年。ちょうどその頃に、日本全国の文化人が集う『エンジン01』という会が高知で開催されていて、作家の林真理子さんをはじめとする著名人方にジンジャーエールの試飲をお願いしたら、『もっと辛いのがいい!』などとアドバイスをいただいたんです。そのアドバイスをもとにできあがったのが、辛口を極めた『01プレミアム』。その後誰にでも飲みやすいようにと甘口の『02マイルド』を作り、多くの人に愛されるようにしています。」
土作りからはじまり、収穫から加工ジンジャーエールの販売までを手がけている「夢産地とさやま開発公社」。2種類だったシンジャーエールは今では4種類に増え、週に3000本ほどを作りますが、全てを手作業で行っているため、当初は数十本という小規模での製造でした。そんな中、試飲協力をしてくれた林真理子さんがジンジャーエールを雑誌に紹介をしてくれたことにより、発売早々生産が追い付かず、うれしい悲鳴があがったのだとか。
「応援してくださる方々のおかげで全国から多くの問い合わせをいただくようになりました。当初は、鏡川の源流域で作っているということで、商品名を『鏡川ジンジャーエール』としていたんですが、もっと全国に知ってもらうためにも、『高知ジンジャーエール』という名前に変えるかという案が出たんです。でも、土佐山も捨てがたいという想いと、土佐山をもっと知ってほしいという気持ちがあって、改めて『土佐山ジンジャーエール』という名前にしました。」
現在はジンジャーエールだけでなく、生姜糖やフィナンシェといったお菓子の製造も行っている「夢産地とさやま開発公社」。そこにもしっかりと土佐山産という表記がなされていて、「土佐山をブランドに」という強い意志を感じます。
無理だといわれてきたものを覆し続け、今では六次産業までをも手掛けるようになった土佐山の産業。その背景に隠されているのは、通称「土佐山スピリッツ」と呼ばれる、土佐山の人たちの学ぶ姿勢です。土佐山アカデミーや実験的な小中一貫校の開設など、老若男女問わず町ぐるみでの学びを推奨している土佐山ですが、その学びの姿勢は戦後間もない頃からあったのだそう。
「学ぶ姿勢で印象的なことといえば、公民館のような場所に集まって土壌分析を行っていましたね。自分が20歳ぐらいのときなので、今から50年以上前。土壌のpHとか窒素とか、町の畑に行ってデータまで出してっていうのを、地域全体で行っていました。」
土佐山の学びの姿勢を受け継ぎ、次世代へと繋いでこられた大崎さんに、活動力の源になっている想いをお聞きしました。
「私は生まれも育ちも土佐山ですが、仲間たちがいろんな事情で土佐山を離れていく背中を見てきました。本当のことをいうと、土佐山に帰ってきてほしいという想いがある中で、今日みたいに県外の方々が取材に来てくれたり、海外から有機栽培を見に来てくれるとうれしい気持ちになる。大したことは何もお伝えできないかもしれないですけど、ひとりでも多くの方が土佐山に興味をもってくださるとうれしいですね。」
多くの仲間が土佐山を離れていく中で、「土佐山を盛り上げたい」という一心で奔走されてきた大崎さん。土佐山の農作物に付加価値をつけ、サスティナブルな自然循環型農業で地域を巻き込んでこられたその想いは、いつしか高知の「土佐山」ではなく、世界の「TOSAYAMA」として注目を集めています。
取材協力:一般社団法人 夢産地とさやま開発公社 https://yumesanchi.jp/
土佐山ジンジャーエール飲み比べ12本セット
税込 5,950 円
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