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震災から10年以上を経て「あの味をもう一度」。おびすや「青のり佃煮」の復活物語

震災から10年以上を経て「あの味をもう一度」。おびすや「青のり佃煮」の復活物語

福島県相馬市

    2024.02.29 (Thu)

    目次

    2011年3月11日、日本列島を襲った東日本大震災。この地で60年続いた「民宿おびすや」も大きな影響を受け、廃業を余儀なくされました。そんな「おびすや」がいま、10年の月日をかけ再興し、新しい挑戦を仕掛けています。当時の逸品料理として愛されていた“あの味”を復活させるまでのストーリーを、3代目・久田裕一郎さんにうかがいました。

    青のりの名産地。福島県・相馬市の「松川浦」について

    福島県相馬市東部にある「松川浦」。福島県唯一の潟湖で、小島が点在するその景観の美しさから日本百景に選定されています。古くは万葉集にうたわれる景勝地であり、多くの観光客で賑わいました。潮干狩りや豊富な魚介類の食事を楽しみに訪れる人々をもてなす旅館や民宿が軒を連ねていたエリアでもあります。

    川と海の水が混じり合った貴重な海洋環境の松川浦は、カニやエビなどをはじめとした魚介類が育ち、アオサの養殖も盛んだったのだそうです。

    60年続く民宿「おびすや」の名物おかず

    震災前のおびすや

    久田裕一郎さんの両親が営む「おびすや」は、60年以上続く民宿でした。
    ズワイガニなどの魚介とともに、青のりの天ぷらなどといった家庭料理を出していたんです。青のりの佃煮は、「何か酒のアテはないか」という宿泊客のリクエストに応えて作ったものなのだそうです。

    「青のりの佃煮は今でいう“ご飯のお供”。一品料理として並べても、一見何だかわからないので残す人も多かったみたいですよ。でも、食べてみたらすごく美味しい。だから『これ何?』と聞かれることもよくあったようです。」

    青のりの佃煮はいわば松川浦の郷土料理。各民宿がそれぞれのレシピで味を競っていたそうです。

    おびすやの青のりの佃煮は、他の民宿のものとどう違ったのかを、裕一郎さんは教えてくれます。
    「『おびすやの青のりの佃煮』は、一味が効いていてピリッと辛い。イカ・にんじん・ごぼうが入っているので食べ応えがあるんですよね。その『おかず感』はおびすや特有のものだったと思います。」

    「いかにもおばあちゃんの味という手づくり感、クラフト感も大きな特徴ですね。工場で機械で作ると、ペースト状やさらっとした佃煮になると思うのですが、おびすやの佃煮は完全に手づくり。だからこそ、生のりの食感が残っていて、箸で持ち上げられるようなもったり感が特徴なんです。」

    裕一郎さんのおばあちゃんの味の佃煮は宿泊客の間で評判を呼び、「売ってほしい」というリクエストが多く寄せられたのだそう。その頃、松川浦の直売センターにはお土産として購入できるような加工品がなく、販売は鮮魚・活魚が中心。地元の人々からも「うちに置いてほしい」との声があがり、直売センターや近隣のスーパーなどでも販売されるようになっていったのだと言います。

    「とはいえ、家業は民宿。佃煮はあくまで、お客さまに喜んでもらうために“もてなし”の一環だったんです。なので、当時は人気商品だという自負もなければ、多くの人に愛されている料理だという意識もあまりなかったですね。」

    3月11日からは海と向き合えずにいた

    そんな中、松川浦は2011年3月11日の東日本大震災により大きな被害を受けました。
    おびすやももちろん、例外ではありません。

    「津波で流されてしまって。その当時、民宿は祖母と両親で切り盛りしていたのですが、建物や街の惨状を見て、心が折れてしまったんですよね。できれば海とはもう関わりたくないと言って、廃業を決めました。」

    60年以上続いた民宿「おびすや」は看板を下ろし、当然その料理の一つであった「青のりの佃煮」も姿を消したのです。

    一緒に民宿を営んでいた裕一郎さんの祖母と両親は、別々の仕事をすべく、バラバラに。当時は大学生だったという裕一郎さんもやりきれない想いを抱えながら、仕方ないと受け入れていきました。

    「あれ、もう一度食べたいなあ」の声に応えて

    加工場には、青のりのいい香りと、味付けの甘い香りが充満する

    震災から10年ほど経った頃、裕一郎さんにある出会いがありました。
    「地元の会合で、若い漁師さんと出会いました。相馬の漁業をなんとかしたい、盛り上げたいと熱い想いを持って復興について活動している人です。初めて会った時、僕は「おびすやの孫です」と名乗ったんですね。大体、その屋号で地元の人たちは認識してくれるので。」

    裕一郎さんが出した「おびすや」という名前。
    すると、すぐに佃煮の話題になったのだそうです。

    「『おびすやの青のり佃煮、すごい好きだったんだよ。あれ、また作ってくれないかなぁ。』と言われたんですね。実は廃業以降も、作り方を祖母から習っていた両親がたまに家でつくっていたんです。なので何気なく、『もしよかったら、両親に作ってもらって、持ってきましょうか?』と言ったんですよね。それが始まりでした。」

    10年前に販売していたパッケージは多くの人たちの記憶に残っていた

    もちろんその時点では大々的に販売するつもりはなく、その「好きだった」と言ってくれた方にあげるだけ。しかしその漁師さんにあげた佃煮は、想像以上に多くの人の噂になりました。

    「『おびすやの佃煮、再開する?した?どこで売ってるんだ?』なんて噂がすごく広まってしまって(笑)。再開するなんて一言も言ってないんですけれど、大きな反響があったんです。」

    裕一郎さんのご両親は、直接声をかけられることも多かったようでその反響の大きさを肌で感じたのでしょう。

    「設備も整い、アオサもまた獲れるようになってきた。復興工事が進み、松川浦の景観も少しずつ戻ってきた。そんなタイミングで地元の人たちの声を聞かせてもらって『じゃあ、またやってみようか』となったんですね。」

    • 1時間以上、かき混ぜ続けながら火にかける、これぞ完全手づくり

    • 1時間以上、かき混ぜ続けながら火にかける、これぞ完全手づくり

    懐かしいだけじゃダメ。新「青のり佃煮」

    加工業も、漁業でもないまったく違う仕事をしていた裕一郎さんは、両親を手伝わざるを得ない状況になってしまい、「おびすや」を加工会社として再スタートさせることを決意します。

    「父と母は、『つくれる』けれど、売る方法や、パッケージなどのことはぜんぜんわからない。だからそれ以外のことは全部自分がやる必要がありました。それに、おびすやって、今はもう“ない”ので、伝わりづらいなと感じていまして、どうにかブラッシュアップしなくてはいけなかったんです。このままだったら、昔のおびすやを覚えている人しか買わない。もっと新しいお客さまに手に取ってもらえるようにしたかったんです。なのでデザインにはこだわりました。一目で松川浦のものだなってわかるように、そしてどこか優しさがあるようなフォントを選びました。デザインに詳しいわけではなかったのですが、相馬市で活躍しているデザイナーさんと一緒に、議論を重ねて出来上がった力作です。」

    買う人が見やすいよう、わかりやすいようという視点も大事ですが、裕一郎さんがおびすやの魂を受け継いでいることがよくわかるのが「作る人にも優しくなきゃいけない」という視点です。

    「難しいパッケージだと、今度商品を作る際に両親やお手伝いさんが困りますよね。うちのは大容量なので、ご高齢の方だと落としやすい。なので軽量化して、加工場でも佃煮を詰めやすく梱包もしやすいポリプロピレンを採用したり、簡単にスリーブだけのパッケージにしたりしました。」

    そんなところも、おばあさんの「もてなし好き」が伝わっていっているのかもしれません。

    松川浦のために。これからも続く挑戦

    「10年経っても多くの人たちが舌で覚えてくれていたのが何よりすごく嬉しかったですよね。」

    本格的に再開した後、お客様から感謝の電話をいただいたのだそうです。

    「おいしい、と思ってもその言葉をわざわざ伝えようと思うのって凄いことだと思います。なのでその想いはすごく嬉しく受け取りました。祖母のもてなしは、多くの人に伝わっていて、そしてそれは佃煮を通じて今も伝わり続けているんだと。」

    鍋を大きくかき混ぜ続ける。「いい匂いでしょう?」と笑顔

    この数年という単位で見ても、海洋環境はかなり大きく変わっているという、松川浦の海。
    ですが、それに合わせて変化するだけではもうダメだというのが裕一郎さんの想いです。

    「変わりゆく海洋環境に合わせるだけでなく、安定した収穫ができるような仕組みづくりや活動を自発的にしていかないといけないなと思います。あと、個人的にはまだ価値が埋もれてしまっている魚種などもスポットライトを当てることで活路を見出していきたいですね。変わってからでなく、先回りして。」

    民宿から加工品会社へ姿を変えたおびすや。その根本にあるのは手づくりの温もりと郷土愛。そこに新しい視点が加わることで、業種が変わっても守り続けるスピリッツは変わらずにいられるようです。

    おびすや (外部サイトに移動します。)https://www.obisuya.com/