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「技と心」に共感してもらえる人に選ばれたい。日常に寄り添う輪島塗「千舟堂」

「技と心」に共感してもらえる人に選ばれたい。日常に寄り添う輪島塗「千舟堂」

石川県輪島市

    2024.06.21 (Fri)

    目次

      日本の三大漆器のひとつである「輪島塗」。その産地である石川県輪島市は、今年2024年1月1日の能登半島地震によって大きな被害を受けました。多くの職人が被災し、元の日常に戻るのも厳しい状況の中、歩みを止めず、国内外を問わず精力的に活動し続けているうちのひとりが漆器ブランド「千舟堂」を運営する「岡垣漆器店」の岡垣祐吾さんです。

      街全体が工房。漆器のまち輪島

      長い歴史を持ち、日本が誇る伝統工芸品である輪島塗は、完全な分業制で成り立っています。木地づくりから塗り、研ぎ、沈金や蒔絵まで、それぞれの職人の家に工房が設えられているとのことで、いわば輪島の街全体が工房といえるのだとか。

      海も山も近く、風光明媚な景色も随所に見られる輪島市。輪島塗も、質の良い珪藻土を下地塗りのベースにしているとのことで、風土や気候も含めて、地域と密接に関わっています。

      「千舟堂」は暖簾分けを経て1948年に創業。以来、文化庁認定の輪島塗技法に基づいて多くの職人さんと共に、輪島漆器を製作・販売してきました。

      2008年の洞爺湖サミットでは千舟堂制作の盃が歓迎晩餐会に採用されるなど、高い評価を得ているメーカーです。

      千舟堂を営む株式会社岡垣漆器店に話をうかがうべく、石川県輪島市を訪ねました。

      岡垣漆器店が目指すスタイルとは?

      岡垣漆器店の商品ラインアップには、いわゆる伝統工芸品である碗や盃、盆などもありますが、コンパクトミラー、傘、ハンガーなどの日用品も揃っています。

      「輪島塗は伝統工芸品なので、椀や盃などを連想する方が多いと思いますが、私たちはもっと身近なプロダクトも制作しています。大事にしているのは職人さんたちの高い技術と、込められた心。プロダクトの形にはこだわっていないので、もっと身近なものを、と開発しています。」

      そう語るのは漆器ブランド「千舟堂」を運営する株式会社岡垣漆器店の代表である岡垣祐吾さんです。

      「お客さんは『これを持った先に自分の生活がどういう風になるか』ということを見てらっしゃるんだなと思います。『こういうライフスタイルを楽しみたい』『私はこういうものが好き』などお一人おひとりの想いをしっかり持つ方が増えてきたという印象を受けます。私は想いを持ったお客様に『こんな職人さんが作ったんですよ』『こういうところにこだわっているんです』など、商品の裏側にある“心”みたいなものを届けたいんです。」

      もうひとつ、“心”と同じく岡垣さんが届けたいのは職人さんたちの高い技術です。

      「ひと言で『塗り』といっても、実は塗りだけで10以上の工程があるんです。上塗りという工程でいうと、新聞紙一枚くらいの薄さの塗りを重ねていくことで、奥深い輝きを増していく。これは輪島ならではの高い技術がなせる技なんです。」

      これこそが、輪島塗の魅力の核なのだそうですが、何の説明もなく商品を手に取るだけでは細かいところまでわかりづらいかもしれません。だからこそ、岡垣さんは積極的に展示会などの現場に立ち、お客様に直接その魅力やこだわりを語る役割を担っています。

      「職人が上、メーカーである私たちが上、ということではなく、役割分担が大事だと思います。私たちは職人さんの技術を心からリスペクトしているからこそ、その価値をきちんとお客様に伝える必要がある。それを担っているからこそ職人さんたちから信頼されて、お客様の細かいニーズにも応えてもらえる。お客様と、職人さんをつなぐ役割……。その関係性を何よりも大事にしているのが岡垣漆器店のスタイルです。」

      近年では伝統工芸品の世界は、職人さんの減少やライフスタイルの変化による売上の低迷など、問題意識も多く語られています。しかし、岡垣さんの想いの源は常にポジティブです。

      「輪島塗の良さをもっと世に広めたい」「この素晴らしい技術力を多くの人に知ってもらいたい」。この2つが岡垣さんの軸となっています。

      「もちろん売上も大変なんですけど(笑)、やっぱり一緒に物を作ることだったり、職人さんの喜びであったり、“喜びを届ける”ほうを大事にしたいんですよね。丁寧に説明して、コミュニケーションの中で販売していきたいんです。」

      精力的に展示会を開催する中で集めた「こんな商品があったらいいな」というお客様の声をつなぎ、さまざまな日用品も制作してきた岡垣漆器店ですが、次のステップのひとつとして海外進出を考えていたそうです。

      「2019年頃から考えて、よし動こうかなというところでコロナ禍になってしまいました。やっと状況も落ち着いてきて、そろそろ具体的に、とリサーチし始めて、2月にニューヨークの見本市に出展することを決めました。それに向けて準備を……といったところにちょうど、震災があったわけなんです。」

      突然の震災で失われた、輪島の工房たち

      2024年1月1日、能登半島は震度7の地震に襲われました。

      「お正月なので、娘が帰省していて、妻と息子と一緒におばあちゃんのところに新年の挨拶に行ってるときだったんです。私たちは運のいいことに、家自体は少し傾いたもののなんとか無事で、家族も無事。でも家具が飛んで、物凄い揺れだったのであっという間に、家中割れ物だらけになりました。」

      制作途中の商品や、出荷待ちの商品を保管する倉庫も多分に漏れず、あちこちに吹っ飛んだ商品は欠損も多く出ました。

      「必死だったのでちょっと記憶も曖昧なんですけど、家族分のスリッパを取ってみんなに履かせて津波から避難して。やっと1月2日の朝になって、明るくなったらだんだん周りの顔がわかるわけですよね。」

      と当時のことを振り返る岡垣さん。

      「『あー誰々さん!』とか『生きてた、よかった!』など、多くの声がけがありました。あれはひとつ大切な瞬間でした。緊張状態が続く中で、一瞬だけちょっとリセットできた。安心すると同時に、地域社会について改めて何か、突き付けられたような感覚がありました。輪島でよかったってわけじゃないですけど、近所の人が顔見知りで普段からコミュニケーションのある地域でよかったなと。」

      震災から間も無く半年が経とうとしている現在でも、輪島市内は1月1日からまるで時が止まったよう。多くの被災した家屋が解体されずそのまま取り残されているような状況です。

      「朝市の火事の跡地をはじめ、街の景色を見るだけでやっぱりショックですし、辛い場面も目にせざるを得なくて、そういう意味では痛々しい現実も当然ありました。でも、自分の知ってる人たちが近くにいる、誰か困ってないかなとか、地域への想いが強くなったと思います。」

      避難生活を4日間過ごした岡垣さんは、仕事を再開します。しかし、職人さんは自宅が倒壊するなど避難生活を送る方も多く、県外への避難を余儀なくされた方たちも多かったそうです。

      職人さんが作業する場所が被災してなくなってしまったり、まだ仕事を再開できるような状況にない職人さんもいたりする中で、新たな商品の生産は難しい状況です。それでもなんとか商品の在庫をかき集め、展示会を再開させた岡垣さん。それは「みんなの生活の再建のためにもとにかく始動しなければならない」との一心でしたが、輪島以外の漆器の産地の方々にも作業を手伝ってもらうなど、多くの人に助けられながら、なんとか再開にこぎつけたのだそうです。

      震災後3ヶ月くらい経った頃、兵庫県・姫路での展示会のことです。

      「場所柄、阪神淡路大震災を経験された方がいて、『もう29年前、昔のことだと思ってるでしょう?でも、神戸もやっとここまで来たんだよ。』と言われたときに、復興ってこういうことなんだとハッとしました。『あれから5年です』『10年です』という区切りの報道を見ていましたが、当事者にとってみれば一日一日の積み重ねが29年なんだなというのを感じて。日々、とにかく震災のことも、輪島のことも、話し続けていこうと思いました。」

      それが誰かのためになったり、地域のため、ひいては自分のためにもなると思った岡垣さん。メディアからの取材や講演なども積極的に受けるようになります。

      (後編に続く)