石川県七尾市
2024.09.25 (Wed)
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石川県七尾市の日本料理店「一本杉 川嶋」。全国の食通から支持される名店です。2024年1月の能登半島の震災によって現在は休業を強いられていますが、美食ガイドブックの日本版での受賞など、料理人の川嶋亨さんの腕は世界からも高く評価されています。世界中から再開が切望される「一本杉 川嶋」のこだわりや、再建に向けた決意や地域への想いなどをおうかがいします。
川嶋亨さんは、石川県七尾市生まれ。父が料理人だったこともあり、気づいたら同じく料理の道を歩んでいました。
「いつかは七尾に戻ってお店を構えるんだっていうような思いで、修行を始めたんですけど、大阪でお店を構えようかなと本気で思ったことも。」
大阪や京都で料理の腕を磨く日々。そんな中、2011年に能登の里山里海が「世界農業遺産」に指定されます。これから能登が盛り上がるのではと期待した川嶋さんでしたが、3年経ち5年経っても地元が盛り上がる様子が感じられず、忸怩たる想いを抱えていたそうです。
「大阪や京都などの都市部の名店にいれば、一流の食材は全国から集まってくる。でも、能登の食材は全然出てこない。能登の食材はすごくおいしいですし、全国トップクラスのクオリティのはずなのに、名店まで届かないんですよ。そこには流通だけではない、さまざまな問題や課題があるということに、地元に帰るたびに気付いていきました。」
能登が抱えるさまざまな課題に触れるにつれ、川嶋さんの能登への想いは徐々に変化し始めます。
「さまざまな人の話を聞いたり話したりする中で、『ひとつの皿ができるまでに、たくさんの方の手が加わって、そしてたくさんの方の思いが伝わっている』ということを知ったんです。知ったというか、改めて気付いた。当たり前のことなのに、修行時代はいまいちわかっていなかったと思うんです。今までの自分の料理は、自己満足の料理だったんだな、と感じたんですよ。」
漠然と「能登の食材を使いたい」と思っていた川嶋さんでしたが、食材に携わるさまざまな人の想いを背負って、“能登の食”のポテンシャルを引き上げる役割を担いたいと、Uターンを決めます。
川嶋さんの1日は、生産者さんのもとを訪れるところから始まります。
「修行時代は、朝起きると真っ先に厨房に行っていました。が、今は感覚としては、生産者に会いに行っているという感じなんです。挨拶とか、とにかく話す。誰かに会いに行く。誰かと関わる、ということを自分の中で大事にするようになりました。」
足しげくいろんな人と関わっていく中で、モヤモヤしていた部分はやがて輪郭を帯びていったのだそうです。
「明確に何をしないといけないかがわかりました。こういうことをすればもっと食材が良くなる、だったり、この人とこの人を繋いであげればもっと良くなる、だったり。それは料理の技術ではないことも多いんです。
大阪や京都など、食のシーンの中心にいたからこそ、料理“だけではない”部分への気付きや視座の変化があったようです。
「今の時代、食材がどんどん貴重になっている中で、生産者さんもその食材を誰に渡すかって重要ですよね。誰にでも売れればいいという時代ではもうない。そこでやっぱり、『この人に食材を託したい』と選んでもらえる料理人であることは、日頃からの信頼関係だと思っています。発注して納品するという関係というより、何か一緒にやっていこうよっていう、対等な、チームという感じでしょうか。」
自分だけ良ければいいということではなく、生産者の方々にもきちんとそれが還元される仕組み作りこそが、将来的にももっと大切になっていくと語る川嶋さん。地域一体としていかに収益を上げるかっていうのをミッションの一つとしてやっているのだそうです。
能登の食材は美味しく、日本一になり得るポテンシャルがあります。それを活かす料理人として川嶋さんは腕を振るいますが、それだけではなく「能登の食文化」の継承も大切に思っています。
「能登は保存食の文化が特徴の地域ですね。例えば北陸の夏は魚があまり獲れないといわれます。その分ブリが冬によく獲れる。冬に獲れたブリを塩漬けして藁で巻いて、夏まで建物の軒下に吊るして風を通すという保存の食文化があるんですよ。でも今の時代、それを家でやられてる方はやっぱりほとんどいないです。」
川嶋さんの世代は、祖母との接点の中でまだそういった昔の文化を知っている世代です。
「辛うじて知っている僕らの世代が、これからそこはもっとやっていかないといけないっていうのは思っています。震災によって若い人たちはどんどん外に出てしまっている。昔ながらの文化が廃れていくスピードが10年20年進んでしまったと思うんですよ。僕は北陸でやってる料理の1人として、そういう食文化の継承っていうものに対して、これからもっともっとしっかりしていかないといけないなというふうに思ってますし、そういう役割の年頃ですよね(笑)。」
やはり、現在の能登にとって、2024年1月の震災をなかったことにはできません。
「震災時は大阪の妻の実家にいました。情報を集めつつ、物資を車に詰めれるだけ詰め込んで、戻る準備をしていました。すぐに炊き出しをしようと。仲間だとか場所の手配だとか。水はどの程度あるのか、最速でいつ能登に行けるのかを探りつつ。」
自身のお店も被災し、解体や資金繰り、さまざまなすべきことがある中でしたが、川嶋さんは自身のことを一旦置いて、被災者への炊き出し活動を続けます。
「1月中は七尾の避難所を中心に炊き出し、2月以降は七尾だけに限らず、能登一帯、輪島だとか珠洲の方も含めて回りました。結局、4月まではやっていたという感じですね。その時の心境は、あまり思い出せないんですよね。無我夢中でしたし。でも、当時自分の食事を食べてくださった方々に会うと、『本当にあの時はありがとう』と今でもいわれることがありますし、実際当時は出したひと皿に涙されてる方がいました。それぐらいやっぱり食べることっていうのは大切なことですし、食事は希望なんだなっていうふうに感じました。」
改めて「料理とは何か」「食とは何か」というものを感じ続けた炊き出しの日々。能登に戻ろうと決めた時と同じくらい、川嶋さんにとっては大きな転機となるくらいの想いがありました。
「やっぱり料理というのは温かいものなんだなって思いました。物理的な温かさということよりも、気持ちを繋ぐものなんだな、と。おいしい料理でお腹を満たすだけではなくて、心を満たさないといけないものなんだなっていうことを改めて知ったんです。今でこそ、お店は休んでいますが、この根本的なことに立ち返った自分の料理がどんなふうに変わっていくのかなと、これからの自分が楽しみでもあります。」
「他の人たちよりだいぶ出遅れた」と語る川嶋さんですが、お店を復活させることに現在は全力を費やしています。
ただ、被災した「一本杉 川嶋」は国の有形文化財に指定されている建物でもあったため、修理には莫大な時間と費用がかかります。それでも川嶋さんは、解体でなく修復の道を選びました。
「今まで100年近くいろんな人の想いを繋いできた建物なんです。自分自身もその町で育っていて、その風景にいつもあったものですし。自分の子供がよく遊んだ場所の風景でもある。そんな思い入れのある場所を、仕方ないとはいえ自分の代で壊すなんて、考えられなかった。何とか残したいと思っているんです。」
ただ、時間をかけるならどのようにしたいかをじっくりチームと語り合い、現在は復旧工事と共に新しい取り組みも始まっています。
「お店の真向かいの建物を購入しました。3軒隣り合わせになっている建物なんですが、もちろんダメージはあるんですけどなんとか持ちこたえたので、そこをリノベーションして、構想としてはオーベルジュ・セントラルキッチン・アンテナショップにしたいなと思っています。」
震災後はゴーストタウンのようになってしまっているという一本杉通り。人が集まるような場所を再度つくり、外から訪れた人が滞在でき、お土産などを買うことができるように。
「七尾を食の聖地のような場所にしたいんです。スペインのサン・セバスチャンのような。それくらいのポテンシャルはあると信じでいます。震災などの悲しい出来事はあったけど、それを力に変えてパワーアップしていきたい。だから、仲間を増やして、七尾に来る人をもっともっと増やしたい。」
そう語る川嶋さんの目はキラキラ輝いています。
「いずれ、自分も引退する日が来ます。それで終わっては意味がないんです。街づくりをしているというつもりはないのですが、それくらいの気概でやっているので、5年10年では出来上がらないと思うんですよ。“自分の料理を美味しくしたい”というかつての自分では出来なかったことだと思います。誰かのために頑張ろうって思えることが、しんどいことを乗り越えるパワーをくれると思いますね。」
まだまだ復興道半ばの能登、そして七尾市ですが、川嶋さんの構想を聞いているとワクワクしてきます。能登の食のポテンシャルや、食文化との出会いをどんどん発信してくれる「一本杉 川嶋」の復活が心から待たれます。
一本杉 川嶋
公式Instagram(外部サイトに移動します。)https://www.instagram.com/ipponsugi_kawashima/
2025年の特別企画おせちを監修いただいております。https://www.daimaru-matsuzakaya.jp/osechi/dm-special/#ipponsugi