2026.03.05 (Thu)
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昭和後期に全国に先駆けて吟醸酒を生産、製品出荷した草分け的な地として知られる静岡。その代表でもあり、世界的な評価を受けてきた酒があります。焼津市に蔵を構える磯自慢酒造。そしてその酒づくりを率いてきたのが、八代目蔵元の寺岡洋司さんです。評価を追わず、声高に語らず、それでも結果として評価されてきた。その背景には、寺岡さんが積み重ねてきた「判断」があります。
駿河湾に面した港町・焼津市に処を構える磯自慢酒造は1830年に創業された酒蔵です。かつて焼津市内で庄屋を営んでいた彼らは、米の流通の役割を担うと同時に余剰米で酒をつくり、それが現在の磯自慢酒造のルーツになったそうです。

磯自慢酒造の八代目蔵元・寺岡洋司さん。
「戦前までは江戸時代の庄屋を源流とする小規模の酒蔵が日本全国にあり、うちもその一つでした。当時は酒蔵が本業というよりも、単純に余った米をうまく活かすための手段として酒をつくっていたようですね。祖父の代までは蔵の規模は150石(1石は約180リットル)程度の、よくある地元に根差した小さな酒蔵でした。」と語るのは、磯自慢酒造の八代目蔵元の寺岡洋司さん。
地元の小川村で収穫された米を使い小規模の酒蔵を営んでいた現磯自慢酒造に転機が訪れたのは40数年前。いまでこそ広く知られている吟醸酒の概念がまだ市場にはなかった時代に、寺岡さん主導で吟醸酒の製造が始まったのです。理由はシンプル。「とにかく高品質の酒をつくってみたかった。」とのこと。

静岡県焼津市鰯ヶ島にある磯自慢酒造の酒蔵。
その後、磯自慢の酒は2008年の洞爺湖サミット、2016年のG7伊勢志摩サミットで提供され、国内外から高い評価を受けることとなりますが、そこに至るまでの背景には多くの“普通”ではない努力とこだわりがありました。
吟醸酒とはつまり、精米歩合60%以下(つまり精米時に米1粒あたり40%は削られる)の低温発酵で時間をかけてつくられる酒のこと。当時、一般的には知られていなかった吟醸酒をつくろうと思い立った寺岡さんは、さまざまなリサーチを重ね、現在の磯自慢につながるいくつかのポイントを時間をかけて見出していきます。まず実施したのは、当時日本酒業界としては珍しかった冷蔵の酒蔵を1982年に導入したことでした。

冷蔵酒蔵内の温度は一定に保たれる。2027年秋には新たな冷蔵仕込み蔵になるのだとか。
「ご存知の通り静岡は温暖な地域ですので、年間を通して低温で酒づくりが可能な環境を本気でつくろうと思ったんです。あの頃もフランスやイタリアのワイナリーに定期的に訪れていたのですが、彼らのワインづくりも参考になりました。」
二つ目は「静岡酵母」を取り入れたこと。静岡酵母とは、元静岡県工業技術センターの醸造指導員だった河村傳兵衛さんが1970年代後半から1981年にかけて開発した清酒酵母のことです。
「河村さんの酒造りに対する熱意、そして研究心により、当時から深い交流があったんです。静岡酵母は酢酸イソアミル系の酵母なのですが、これを使って酒をつくると、颯爽とした香味のバランスがとれて飲み飽きしない酒質になるんです。ただ、うまくこの酵母を使うにはかなりの技術がいるので、当初はかなり苦労しましたね。通常、静岡酵母を使用すると完熟バナナのような香りがしますが、うちでは独自のアレンジを加えているのでマスクメロン、白桃、洋梨、ベリー系の香りがするのが特徴です。」

長年培ってきた緻密な計算のもと仕込まれる酒。
三つ目は洗米技術。その際は大井川の源泉から持ってきた大量の水を使用し、秒単位で管理される限定給水が行われます。
「磯自慢酒造の洗米は、10キロの酒米に対し350リットル以上の水を使用します。米の表面を徹底的に洗い、米自体に限定した水分を吸水させるんです。洗米・限定吸水された酒米を電子顕微鏡で見ると、曇りのないスカッとした八角形の結晶を見ることができます。酒づくりには『一麹(いちこうじ)、二酛(にもと)、三造り(さんつくり)』という言葉がありますが、うちの場合は原料処理と酒を搾る際の酒袋の洗浄に特にこだわりがあるんです。」

限定給水洗米を行っている様子。独自の技術が各工程に息づく。
そこまでやることで良い蒸し米がとれ、その時点で甘い香りがするのだとか。
「うちでは現在、酒米に『特A地区産東条山田錦』を使用していますが、蒸し米する際に急冷させることでパラパラになり、容器に開けると澄み渡った青い藁の香りがするんです。また、麹造りにも時間を目一杯かけており、そこもポイントです。麹菌を多くは発生させず、高精白米は1粒に2~3点のみの突きハゼ麹とし、表面の水分を飛ばし締めることで、麹菌が食い込んでいくんです。」
かくして誕生したこだわりの酒。その後、35年程前に正式に八代目蔵元となった寺岡さんですが、当時も今も酒づくりに対するスタンスは一切変わっていないと言います。そして、そのスタンスを体現するにあたり欠かせないのが、現場のメンバーたちの情熱だそう。

作業服にあしらわれる「Team Isojiman」。「Team」のワードに彼らの強い意志を感じる。また、磯自慢酒造のロゴは洗米された後の米の結晶がモチーフ。
「うちの特徴として、私を含め関わっている人間同士の風通しがとてもよいことが挙げられます。醸造は12人で行っているのですが、酒づくりに関して言いたいことがあった場合、立場関係なく言い合える関係性が磯自慢酒造のクオリティを実現していると言っても過言ではありません。」
なんと、醸造を行っているメンバーのうち半分が杜氏(とうじ/日本酒の醸造を行う酒蔵の現場責任者)の免許を持っているのだとか。その中でも、磯自慢酒造としての名誉杜氏、杜氏の二人の存在は大きいのだそう。

名誉杜氏の多田信男さん(左)と杜氏の待井由朗さん(右)。
「特に名誉杜氏(厚生労働省が表彰する『現代の名工』)の多田は酒づくりに対して熱く、たとえば休憩や食事の時など、現場を離れる際は必ず2か所ほど見回っていくんです。例を挙げれば切りがありませんが、彼のそのような姿勢を周りは見て成長してきたわけで。杜氏の待井含め、技術だけでなくそういった気持ちの面も現場で日々継承されていることが私たちの誇りです。」
現在、磯自慢酒造の生産量は2000石だそうです。国内大手の酒蔵の中には25万石を超えるところもあり、一方1000石以下の酒蔵が圧倒的に多いことを考えると、その規模は中規模の酒蔵ではありますが決して多いとは言えません。しかし、寺岡さんは生産量を増やす意志はないと明確に言い切ります。

酒蔵の横にあるお店ではつくりたての磯自慢を購入することができる。
「磯自慢は一切の妥協を許さずにつくってきた私たちのブランドです。これからもこの姿勢を維持していくためには今の生産量が上限なのです。当初からうちの酒に目をつけてくださり、世界に磯自慢の存在を知られるきっかけをつくってくれた東京の『はせがわ酒店』とのお付き合いもそういった姿勢があってこそ始まったものですし、特約店様をはじめとした関係者たちの信頼を裏切るわけにはいかないので。」
数々のコンテストでの成績に反して、マーケットでの遭遇率が低い理由はそういったところもあるようです。挙げれば切りがない華々しいエピソードをあえて社会に対して語らず、真摯に酒づくりに向きあい姿勢こそ、磯自慢酒造の最大の魅力かもしれません。一方で、磯自慢の酒をより多くの人に深く楽しんでもらいたいという気持ちは強いのだそう。

限定酒「La Isojiman Adagio Maestoso」/¥110,000(720ml)
「磯自慢の酒は現在25種類程あります。当然、価格の高いものほど高品質なわけですが、誰しもが高価な酒を飲めるわけではない。だからこそ、さまざまなバリエーションをつくって、磯自慢の酒を多くの人に楽しんでもらいたいと思ったわけです。気軽に楽しめるエントリーモデルからトップモデルまで、かなり細かくグラデーションをつくっているので、それぞれの違いをぜひ味わってもらいたいですね。」
磯自慢を語るとき、忘れてはならないのが焼津という街の存在です。焼津は、遠洋漁業の拠点として栄え、カツオやマグロをはじめとする海産物、そして鰹節や水産加工品が日常にある土地です。素材の違いに敏感で、出汁や塩加減のわずかな差も感じ取る。そんな舌の肥えた食文化が、この街には根づいています。

酒樽に記された「一滴入魂」。まさにこの言葉がぴったりの酒づくりがここで行われている。
その土地で磨かれてきた磯自慢が、強すぎる個性や過度な主張を持たないのは偶然ではありません。料理の隣に置いたときに、そっと輪郭を引き立てる。魚介はもちろん、フレンチやイタリアン、さらにはフルーツやチーズと調和するのも、味のバランスを徹底してきた結果です。焼津という街の味覚水準が、磯自慢の基準を自然と引き上げてきたともいえるでしょう。
そしてもう一つ、忘れてはならないのが八代目・寺岡洋司さんの存在です。冷蔵酒蔵の導入、時代に先駆けた吟醸酒の商品化、原料処理へのこだわり。どれも決して時代の流れに身を任せた選択ではありませんでした。拡大を急がず、基準を下げず、関係性を重んじる。その姿勢は、寺岡さん自身の人柄と重なります。評価を追いかけないかわりに、やるべきことを徹底する。この姿勢は九代目の寺岡智之さんにも、同じ信念、立場をもって、事業や伝統、理念が引き継がれています。
酒どころと呼ばれる地域ではない静岡で、静かに歴史を紡いできた酒蔵。その未来が、どのように次の基準を描いていくのか。磯自慢のこれからが、楽しみです。

磯自慢酒造株式会社
公式ウェブサイトhttp://www.isojiman-sake.jp/