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今までも、これからも、あなたの「おもいで」に。滋賀「つるやパン」

今までも、これからも、あなたの「おもいで」に。滋賀「つるやパン」

滋賀県長浜市

    2022.12.13 (Tue)

    目次

    コッペパンにたくあんとマヨネーズを挟んだ「サラダパン」は、滋賀県長浜市・木之本の人々のソウルフードであり、今や全国的にも有名なご当地パンです。作り手の『つるやパン』は1951年の創業当時から、今も真摯にパン作りに努めています。マスコミに取り上げられても、県外客が増えても、向いているのは常に地元。いつまでも「町のパン屋さん」をコンセプトに歴史を紡ぐ、同社3代目の西村豊弘さんに、木之本への想いとパン作りの心をうかがいました。

    パッケージの「ダ」にある秘密

    「実はこのパッケージ、デザイナーさんに言わせるとバランスが悪いそうです」。のっけから気になることを言う豊弘さん。「『ダ』の字がちょっと右に寄っているでしょう。これまでに何度も直すチャンスがあったんですが、昔のままにしておきたくて」。そう、黄色に緑色のロゴが入ったレトロ感満点のパッケージは、1962年の誕生時のまま。約60年間このデザインを貫き、今後も変える予定はないそうです。

    今日も北国街道沿いにある『つるやパン』には県外ナンバーの車が停まり、お客さんが途切れません。工場から届くサラダパンの山が、あっという間に減っていきます。中には買ってすぐに店外で頬張る人の姿も…。

    ふわふわのコッペパン生地は、きつね色の皮が香ばしく、中はほのかに甘い。間に挟まれた刻みたくあんがシャキッと小気味良い音を立て、甘酸っぱいマヨネーズの味が口に広がります。どこか懐かしい味。食べたことがない人でも、子供の頃の記憶を呼び起こされるような、優しい昭和の味がします。

    しかしたくあんとマヨネーズを合わせるとは斬新な発想ですが、この商品、一体どのように誕生したのでしょうか。

    先代の妻・智恵子さんの閃きから生まれたサラダパン

    『つるやパン』の創業は1951年。祖父・秀敏さんは地元を出て東京の早稲田大学に進みましたが、戦後の日本でパン給食が始まることを知り、地元でパン屋を創業するため帰郷。近所に「はとや」「かめや」があったことから屋号を「つるや」と名付けました。

    創業から数年後、店には甘いパンしかなかったことから「おかずになるパンを」と妻の智恵子さんがキャベツとマヨネーズを和えた初代サラダパンを考案。大ヒットしたものの、キャベツから水が出るため卸売には向かず、1年ほどで販売中止に。そこで、「水が出なくて腹持ちも良い食材」と閃いたのが刻んだたくあんを入れることでした。

    こうして1962年に誕生した新生サラダパンは、誕生当時からほとんど味も姿も変えず、現在まで『つるやパン』を支えるロングセラー商品に。十数年前からはテレビや雑誌などでも取り上げられ、滋賀県木之本のソウルフードとして全国的に有名になりました。

    外に出て気付いた、「ウチにしかないもの、あるやん」

    つるやパンの店内を見渡すと、サラダパンやサンドイッチなどレトロなパンに交じって、ちょっとおしゃれな箱の「ラスク」や、Tシャツ、エコバックなどユニークなグッズも並んでいます。これらを考案したのは豊弘さん。実はもともと、家業を継ぐ気は全くなかったそうです。大学は神奈川県、就職は東京に出て、経済誌の編集会社に勤めていたとのこと。「両親もパン屋はもう生き残れる時代ではないと。自分たちの代で畳むつもりでした」。

    しかし東京でも趣味でパン屋巡りをする中で、「どのパン屋も美味しいけれど、ウチみたいに〝他にないもの〟を作っているお店はないな」と思い始めるように。地元にいる時は気付かなかったけれど、自分の店にはすごいものがあったんだ、と再認識したといいます。奇しくもそのころ、父親が体調を崩したために仕事を手伝うことになり一時帰省。さらにその時期、「サラダパン」がテレビで紹介されたことからブレイクし、そのまま会社を辞めて継ぐことを決めたのだそう。

    梱包用の段ボールに入れた「あるメッセージ」とは

    豊弘さんが家業に入ってすぐの頃に開発したのが先のラスク。パンは賞味期限が短いため、「どうしたらうちのパンの味を遠くの人に知ってもらえるか」と考えて作った商品です。このラスクが日本パッケージデザイン大賞2007で賞を取り、もっと自社の商品を多くの人に知ってもらいたいと思うように。

    「まずはこの店を木之本に来てくれるフックにしよう」と看板を作り変え、店内を改装するなど、観光客も立ち寄れるスポットとなることを目指しました。一方で、あくまでもつるやパンは「地域に愛されるパン屋」。そのコンセプトを守り続けたいという想いも込めて、地方発送用のダンボール箱にある文言を入れました。それが、「あなたの思い出の味でありますように」というメッセージです。

    「進学や就職で地元を離れた子供に荷物を送る時、お母さんがうちのパンを上に1つ2つ入れてあげることが多いんだそうです。それ、なんかいいなと思って」。観光で滋賀県を訪れる人や、琵琶湖を自転車で一周するサイクリストが、道中で食べたつるやパンの味。そういった「これからも記憶に残る味」という意味も込められています。

    運動会の時期は、生産量が減る!?

    工場を見せていただきました。店舗から歩いてすぐの建物で、早朝から全店分のパンが焼き上げられています。第1発酵室、第2発酵室、オーブン…と大きな設備が並ぶ通路を、できたてのコッペパンやソフトフランス、丸い食パン、メロンパンなどが行ったり来たり。サラダパンの具となるたくあんとマヨネーズは、今では機械で注入されますが、昔は全て手作業。「でも機械より早い職人が何人もいます」とのこと。ここで働くスタッフは、何十年選手のベテランばかり。

    豊弘さんの一番の願いは「長く働ける会社であること」。パートさんの子供の行事や体調不良の時は、遠慮せず休んでもらい、その分生産量を下げる。だから運動会の時期に、スーパーに並ぶサラダパンが少なくても、笑って許してくださいね。

    これからも、木之本にあり続ける理由とは

    サラダパンは、周辺のスーパー70店舗ほどに自社便で配達しています。その理由は、「なるべくフレッシュなうちに食べて欲しいから」。小麦粉も、高級ではなく「中の上」を使うのが信条。それが昔ながらの素朴な甘さと食感の秘密です。価格も以前からは少し値上げし、今は170円ですが、「これでも高いなと思います。これ以上は上げたくない」と豊弘さんは打ち明けます。

    「パン屋をやる人ってどこか変わった人が多いかもしれないですね。朝は早いし、重労働だし…」と笑う豊弘さん。それでもつるやパンの暖簾を守るのは、このお店が「木之本にある」ということが大事だと考えているからです。木之本は古くから北国街道の要所であり、行き交う旅人と地域の人々との交流があった場所。つるやパンには今でも部活帰りの高校生や近所のお年寄り、子供たちがパンを買いに来ます。そうした地元の日常の食風景に触れることで、来訪者に木之本の生活の息づかいを肌で感じ、町の歴史と文化も知ってもらえたら—。そんな願いで、人々の思い出となり、心をつなぐパンを、今日も焼き続けるのです。