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美しい青に魅せられて。「阿波藍」の伝統を受け継ぐ「Watanabe’s」の創業物語。

美しい青に魅せられて。「阿波藍」の伝統を受け継ぐ「Watanabe’s」の創業物語。

徳島県板野郡

    2023.06.28 (Wed)

    目次

    徳島県はジャパンブルーの代表格「阿波藍(あわあい)」の生産地。その美しい青に魅せられ徳島県に移住し、新ブランド「Watanabe’s」を創業した元商社マンがいます。その渡邉健太さんは、藍師・染師として、地域とともに藍染の伝統文化を守りながら、藍染に新しい価値を生み出しています。

    藍が持つ美しい青「ジャパンブルー」の由来

    日本人の生活に深く根付いてきた「藍染(あいぞめ)」。
    その歴史は遡ること明治時代、来日したイギリス人の化学者、ロバート・ウィリアム・アトキンソンが、藍色の着物を着た人々の様子を見て、その美しい青を「ジャパン・ブルー」と名付け、賞賛したことに由来しているそうです。

    当時、江戸時代から明治初期における藍の主な生産地は徳島県。その北東部に位置する上板町は、日本の藍の天然染料である「すくも(蒅)」の一大産地として知られています。上板町は、ナショナルチームのユニフォームなど、現在でも日本の色として親しまれる「ジャパンブルーの聖地」といっても過言ではありません。

    上板町が守る「阿波藍」の伝統

    • 上板町の伝統工芸を後世に伝える「技の館」。さまざまな体験を通じて藍文化の歴史や上板町の取り組み、阿波藍について知ることができる施設。

    • 藍染の体験施設では、Tシャツやハンカチなどを染めることができる。

    • 藍の歴史を伝える展示物も。

    そもそも藍染とは、染料である「すくも」を用いた染色技法のことを指します。
    「すくも」は収穫した藍の葉を乾燥させ、約120日かけて、水と空気のみで発酵させ、堆肥化させることで出来上がります。

    中でも徳島産の高品質なすくもは「阿波藍」と呼ばれ、上板町では、その歴史と文化を大切に守り受け継いできました。

    美しい青に魅せられ、藍染の世界へと飛び込んだ商社マン

    「初めて染色液の中に手を入れたとき、“俺、これをやんなきゃいけない”という強い使命感が身体中を駆け巡ったんです。」

    そう話すのは、上板町に工房を構える「Watanabe’s」の藍師・染師である渡邉健太さん。2012年、上板町の地域おこし協力隊に着任し、藍栽培、すくも作り、藍染など藍の伝統を学びました。

    渡邉さんは大学卒業後、東京で商社マンとして忙しく働いていました。そんなある日、やりたいことに挑戦しようと、かねてより興味のあった藍染を体験するべく東京都青梅市にある工房を訪れます。

    カミナリに打たれたように、藍に魅せられた渡邉さん。藍染体験の4日後には、会社に退職を願い出たのだとか。退職後はさまざまな工房や畑をまわり、SNSで見つけた徳島県上板町の地域おこし協力隊に応募しました。

    世界進出と原点回帰

    その後は、奮闘の毎日。寝食を忘れるほど藍の世界にのめり込み、着々と自身に藍の技術や知識を落とし込んでいきました。協力隊の任期終了後も活動できるよう、ブランド設立の準備も同時進行で行いながら、2015年には仲間とともに「BUAISOU.」を立ち上げます。

    しかし、日本での活動は前途多難。そんなとき、ニューヨークから藍染ワークショップの依頼があり、活動拠点をブルックリンへ移します。

    「日本にサステナブルという言葉が入ってくるより前に、海外ではそういった取り組みへの注目度がものすごく高かったんです。だから藍栽培からすくも作りをして染めるという僕らのブランドと、海外のエシカル消費とは相性が良かったのでしょう。海外でまず注目され、日本には“逆輸入”という形で徐々に浸透していきました。」

    その後、ある情熱を持って、渡邉さんは自身で立ち上げた「BUAISOU.」を離れることになります。それは「良い色を創るために本質を追い続けたい」という想い。藍師と染師の両方を担い、ゼロから藍染めの作品を作り上げるという挑戦を始めます。

    そのとき頭に浮かんだのは、上板町でお世話になった人たちの顔。この地での活動を簡単に諦めたくないという強い想いから、2018年に「Watanabe’s」を創業。藍栽培から染めまで一貫して行う新ブランドとして、上板町で再スタートを切りました。

    「真の藍色」に対する探究と、世界へ向けて伝承する藍の在り方

    これまで日本の藍染といえば、藍師と染師の分業制が常識でした。なぜ「Watanabe’s」は、藍栽培と染めを一貫して行うのでしょうか。

    そう聞くと、「単純に、好きなんです。面白い。」と渡邉さんは微笑みます。

    「藍師が不足しているという現実的な側面もあります。でもそこ以外に、良い色には良いすくもが、良いすくも作りには良い藍葉が、良い藍葉には良い土が必要です。つまり、藍の良し悪しは結局土に還ってくるので、色ができるまでの過程、その源流に携われる楽しさったら、格別なんです。ただ藍師と染師どちらもやるという前例がほとんどなくて反対もありました。」

    阿波藍を次世代へ。上板町とともに紡ぐ道のり

    渡邉さんの想いは、上板町の想いでもあります。「阿波藍」のアイデンティティーは、染めることだけでなく、藍をつくること。「すくも」作りにこそ継承すべき伝統文化が宿っています。

    すくも作りの伝統を支えなければ、日本の藍文化に未来はない――。
    そう語るのは、上板町にある「技の館」館長の瀬部昌秀さん。

    「藍文化が最高潮だった明治35年頃は、1万5,000ヘクタールもの藍畑が広がっていたんです。しかし明治40年頃には、化学染料が台頭し、生糸を作るためどんどん藍畑が蚕畑になって、上板町ですくもが生産されていたことなんて誰も覚えていないのではと思う時代もありましたね。なんとかして、藍の生産・すくも作りの伝統を絶やさないようにと、藍師の新居修さんと佐藤好昭さんをはじめ、町一体となって必死に守り続けてきました。」

    上板町では、1990年後半から学校教育の中に藍染体験を取り入れ始め、そしてもっと多くの人が藍に親しめるようにと、1998年に「技の館」が誕生。そして渡邉さんの運命を変える「地域おこし協力隊」を募集し、瀬部さんは渡邉さんと出会います。

    「地域おこし協力隊の任期は3年。渡邉くんたちは、新居さんの畑で藍栽培を教わりながら、この施設で藍染技術を磨きました。地元の行事にも積極的に参加してくれて、町には活気が戻りましたね。彼らは一生懸命、藍と向き合ってくれました。」と当時の様子を振り返ります。

    Watanabe’sもブランド立ち上げ当初から、藍染の体験先として、地元の小学生の受け入れに協力したり、工房に隣接する養豚場と協同で、完熟堆肥による土作りにも挑戦しています。さらに、藍師の減少という担い手問題にも着目。Watanabe’sでの取り組みを自分の代で終わらせないよう、渡邉さんは、次世代にも残せる仕組み作りに注力しているといいます。

    こうしてみると阿波藍は、地域のたくさんの人たちと共に進み、守られているのだと実感します。

    藍染めをもっと身近に、もっと世界に

    地域とのつながりを大切にしながら、渡邉さんは新しい挑戦も計画中。
    「Watanabe’s」ブランドとして、すくもから染料液を作って藍染めが楽しめる「すくもキット」を販売しようと目論んでいるのだとか。すでに国内外でキットのモニターを体験してもらい、反応は上々。

    また、2023年8月には、MAKINO Botanical Art Projectとのアートプロジェクトが始動。高知県にある牧野富太郎植物園にて、浸し染めと叩き染め2種類の染めに挑戦できる草木染め体験イベントを開催予定です。

    「藍があるから染めようよ!」と家族や友達が集まる。藍は職人だけが扱う特別なものではなく、一般の人も手にとれるような身近なものである。そんな日常の延長線に藍があることこそ、渡邉さんが考える理想の藍の形だといいます。

    さらに、国内だけでなく世界も強く意識しています。

    「藍染は、日本だけの技術ではありません。しかし、すくもを使った伝統の藍染技法は、日本独自 のもので、日本の藍文化が歩んできた歴史、特別な技法、発酵のニュアンス、それらを正確に伝えられるよう、その国々の言葉で「Watanabe’s」の想いを伝えることは、ブランドとしての目標なんです。」

    上板町で再び宿る、藍染の灯火

    最後に、Watanabe’sが描く未来について聞きました。

    「僕らって、“染師が藍師もやっているらしい”と思われているんです。でも、僕の中では逆。イメージを逆転させ、“藍師がやっているプロダクト”と認識してもらうべく、藍師という職業を多くの人に知ってもらいたいです。近い将来、この工房から見える畑を全部藍畑にしたいです。」

    時間の経過とともに風合いの変わる尊いブルー。その文化の礎を守るWatanabe’sには、キラキラと大きな夢が広がっていました。