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時代を超えて変わらない味わいを−京都最古の洋菓子店「村上開新堂」の物語

時代を超えて変わらない味わいを−京都最古の洋菓子店「村上開新堂」の物語

京都府京都市

    2023.02.07 (Tue)

    目次

    京都御苑の東側を南北に走る寺町通。どこかレトロな印象のある石畳の通りには、創業300年を超える茶舗や漆器店など、京都の文化を支えてきた老舗が並んでいます。その通り沿いにある「村上開新堂」は、まだ洋菓子が一般に広まる前だった明治時代から、116年にわたって洋菓子を作り続けてきた一軒。明治・大正・昭和と先代が生み出してきた洋菓子を今に残し、変わらない味わいを守る4代目店主の村上彰一(むらかみ しょういち)さんにお話をうかがいました。

    文明開化! 京都に洋菓子を広めた村上開新堂

    板ガラスの入り口に、白とグリーンのタイル、大理石の柱、所作のきれいな店員さん。そして、カーブを描くショーケースに並ぶ昔ながらのロシアケーキやクッキー。村上開新堂を訪れると、現代から少し時代を遡り、特別な空間に来たような気持ちになります。

    「ありがたいことに、うちは地元の方に長く愛されている店です。でも、レトロモダンな雰囲気がいいと言って、遠方から訪ねてくれる若い方も増えています。」と語るのは、4代目店主の村上彰一さん。

    村上家はかつて宮中で大膳職を務め、代々料理人をしていたそうです。明治時代に明治天皇が皇族・公家とともに東京へ遷られた際、村上家もともに移住し、その後宮家(常宮)に仕えました。のちに廃宮になったため役職を離れ、明治7年(1874)、村上光保さんが日本初といわれる洋菓子店「村上開新堂」を東京に創業します(東京都千代田区の村上開新堂)。光保さんの甥・清太郎さんが京都に戻り、明治40年(1907)に開いたのが、現在の寺町二条にある村上開新堂です。

    創業当時の村上開新堂

    初代の清太郎さんは、彰一さんにとっては曽祖父にあたります。「東京で村上家は、新しい時代に西洋の文化を取り入れ、洋菓子を一般に普及させたいと思っていました。曽祖父はその思いを受け継ぎ、一族の出身地・京都に戻りました。シンプルに言うとのれん分けです。」と彰一さん。その言葉のとおり、京都で「洋菓子の専門店」としてのれんを上げたのは、村上開新堂が初めてだといわれています。

    創業時からさまざまなお菓子があり、大正時代には現在の代表商品のひとつ「好事福盧(こうずぶくろ)」などの生菓子が、第二次世界大戦前~戦後には焼菓子が誕生しました。戦争が始まるまでは職人さんが30~40人も働く大規模な洋菓子店で、住み込みの方も多かったそうです。

    紀州のみかんをふんだんに使ったゼリー、好事福盧(こうずぶくろ)

    村上開新堂の魅力のひとつである建物が完成したのも、戦前の昭和10年(1935)のこと。表は木像漆喰の洋風建築、奥は坪庭や床の間がある日本建築で、村上一家の生活の場でした。接客スペースには、建物にあわせて造られたガラスのショーケースや、繊細な細工を施された照明、古い秤など、心をときめかせるものがたくさん。どれも当時の姿をとどめるとても貴重なものなので、訪れる際はちょっと背筋が伸びるのです。

    戦時下には休業を余儀なくされましたが、貴重な建物と洋菓子の技はしっかり守られました。昭和27年(1952)に営業再開し、その後、現在も絶大な人気を誇るロシアケーキが作られるようになりました。

    戦後は彰一さんの祖父、祖母、弟子の方をメインに洋菓子の製造と店舗運営がされていたそう。その後、父や叔父が加わります。「戦後は家内工業で、焼菓子が多く作られるようになりました。僕の子供のころの記憶には、父や母、祖母が店で働いている光景が残っています。僕と弟がそばで見ていたり、遊んだり。当時はみんなで奥の日本家屋に住んでいたので、それが日常風景でした。」

    ファンが求めるのは、変わらない村上開新堂らしさ

    彰一さんは、23歳のときに家業に入り、令和元年に事業を承継しました。経営はもちろん、今も現場に立って洋菓子作りをする日々です。歴史ある店を継ぐことについて、どんな想いがあったのでしょうか。

    「家族がお菓子作りをしているのが日常だったため、『大人になったら継ぐのかな』という淡い気持ちはずっとありましたね。大学進学時に改めて意識し、経営学を学びました。」と彰一さん。

    子供のころの彰一さんにとって、洋菓子はとても身近な存在でした。家族が店の常連さんに商品を配達するのを手伝うと、おやつとしてお菓子がもらえたそう。たとえば祇園のお茶屋さんへの配達を手伝った際は、女将さんがお駄賃をくれたなんていう微笑ましいエピソードも。

    大学卒業後に家業に入ってからは、家族やベテランの弟子の方にお菓子作りを習いました。ちょうど京都が観光都市として発展し始めたころで、店は忙しくなっていったそう。村上家の子供として、店の次期後継者として、そして4代目店主として、さまざまな立場で村上開新堂を見てきた彰一さん。立場の変化とともに、店に対する想いも変わっていきました。

    「古い店というのは理解していましたが、自分が考える以上に多くの人に愛されて続いてきたことを改めて知り、会社の重みを実感しています。お客様のなかには、『私が子供のころにあったお菓子が、今も変わらずあっていい』と話す方や、親子2代、3代で通ってくださる方も多いんです。みなさんが望むのは『変わらない』こと。」

    「お菓子、食べ物にはトレンドがあります。でもやはりシンプルで変わらないのが村上開新堂らしさで、うちのお客様が望むものだと思っています。素材の良さを大切にし、流行に左右されず、どちらかというと味を守る考え方が基本であり、道を外れたらあかんところなのかなと。」

    商品はもちろん、パッケージも昔ながらのものを大切に守っています

    昔ながらのスタイルを大事にしている村上開新堂。それは、お菓子と建物だけでなく、接客面も同様です。彰一さんの言葉を借りると、「なるべくアナログで、効率は重視しない接客」。商品の説明やその言葉遣い、所作についても、システマチックにはせず、それぞれのお客様に寄り添うように心がけているそうです。

    たとえば、電話。今はインターネットで簡単に買い物ができる時代ですが、村上開新堂では電話注文形式を続けています。お客様の「お菓子が届くのを本当に楽しみにしている」という生の声を聞けるのが、接客の醍醐味でもあるのだとか。

    今まさにその無形の「おもてなし」を受け継いでいる最中のスタッフのひとり、林存穂(はやし ありほ)さんはこう話します。

    「本当にみなさまから愛されているお店だというのを実感する毎日です。たとえば、3世代で当店のお菓子を召し上がってくださっているお客様が、『孫が来るからお菓子を買いにきたのよ』とうれしそうに話されることも。幅広い世代のお客様と接していると、自分が知らない時代のお店の姿まで目に浮かぶようです。」

    変わらないことは停滞ではない、さらに歴史をつみかさねていく

    一方、時代にあわせた新しい洋菓子を生み出すことも、村上開新堂が受け継いできた「変わらないこと」のひとつです。

    若くして店の経営に携わるようになった彰一さんは、伝統の基盤の上に新たな挑戦を続けてきました。「僕たちの世代で、僕たちが親しみやすいお菓子も作ってみよう」という考えから、ダックワーズなどのフランス菓子やバニラプリンを開発したり、店舗の奥の日本建築をリノベーションしてカフェを作ったりと、幅広い世代に響く取り組みも。

    「100年以上味を守ってきた村上開新堂で、既存のものは変えず、新しいものは時代に応じて変化させていく。個人としても、会社としても、そういう目標をもって仕事をしていきたいと思っています。」と彰一さん。

    昔ながらのものを守り伝えること、そのために新たな挑戦を続けること。代々つみかさねるその歴史が、よりいっそう村上開新堂の「味」を深くして時代を超えていくのでしょう。